津久井vs太田道灌

金子氏の原点回帰、懇意にしているもう一つのホーム。

武蔵村山市協働事業『武士団・村山党』の不定期郷土史講演会に出席してきました。

 

第7回目となる今回のテーマは、『太田道灌』!

講師 太田道灌顕彰会理事・尾崎 孝 氏

太田道灌は、関東各地に伝承所縁の地がある超ビッグネーム武将なため、

武蔵村山市にも所縁があっても不思議ではないのではあるが…

この所縁は、偶然か必然か、私の研究・活動に直結する、かなり興味深いものなのです!

すなわち「村山の陣」(長尾景春の乱残党狩りのため、奥三保・津久井に攻め寄せるために太田道灌が再布陣した伝承が、武蔵村山市にあります)!

津久井といえば…

そう!このオブギョー、常々、津久井衆甲冑隊にて城主内藤氏としての役をいただいている因果。

しかも半年前には、まさに長尾景春その人として演じた因果。

 

その奥三保、相模川に面した小高い実戦特化山城『小沢城』城主『金子掃部助』こそが、蜻蛉の家紋をもつバリバリの村山党金子氏にして、長尾景春に与し、太田道灌と直接対決。実に3ヶ月近くゲリラ籠城戦を展開し、凄絶な討ち死にを遂げた硬骨の武将。

落ち行く城から身重の妻を脱出させ、その妻は落ち延びながら嫡子を出産。

その嫡男は、後に津久井衆として小沢城主に返り咲く感動秘話あり。

 

さらに別の切り口から、横山党海老名氏嫡流が滅びた後、海老名麾下の小沢城を村山党金子に任せた海老名金子氏に伝わる伝承として、『有鹿姫』という金子掃部の娘(海老名家と婚約)が、小沢城落城の際に悲壮な怨念を遺し亡くなる悲劇もあり。

 

このような逸話が色濃く残されるあたり、よほどの激戦…そして現地に慕われた武将だったんだなと察する。

海老名界隈の金子氏だけ、なぜか桓武平氏ではなく、出自怪しい系譜にて源氏を称しているミステリー。

これは私が調べ勝手に妄想含むところではあるが…

小沢城落城後、わざわざ敢えて立地条件微妙な武蔵村山に太田道灌が陣を布いたのは、金子氏を輩出した『村山党』の制圧が狙いではなかったろうか。

海老名金子氏が、揚羽と蜻蛉の家紋をもちながら横山党系譜の源氏を自称するのは、村山金子氏と切り離される事情…あるいは婚約先の海老名家への配慮からであろうか。

 

尾崎さんに紹介していただいた道灌史書にても解らなかった。

まだまだこれから、繋がっていく。

村山党金子。まさに勝虫の如く常に最前線で関東一円で戦い明け暮れた武家。

 

可能性に打ち震えながら…

締め切り過ぎたシナリオをこれから酔っ払いながら書き進め…ようとしている、仕事の遅い現代金子お奉行でした。

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